
尾崎界隈(浜街道)
大阪から泉州の海岸に沿って紀州街道が走ります。
鶴原(泉佐野市)からは山手を、現在のJR阪和線沿いに紀州へ向かいます。一方、鶴原からそのまま海岸線を進む道は、佐野・樽井・尾崎を通り淡輪から孝子峠を経て紀州に入るので孝子越街道(通称:浜街道)といいます。この道は現在の南海本線に沿った道で、街道沿いに尾崎・西鳥取・貝掛・箱作の集落があります。
尾崎は天正年間(1573~91)に鳥取源右衛門が開いたと伝えられていますが、源右衛門は姓を吉田に改め、以後吉田氏は江戸時代を通じて尾崎村の庄屋を務めました。
尾崎は海岸沿いに家屋が立ち並ぶ700mに及ぶ街村として開かれ、当初から海と陸の両方の要素を持つ村として成長しました。湊には漁船のみならず商船が出入りし、街道筋には漁民や廻船問屋をはじめとする商人職人などの家が立ち並びました。陸(おか)では農地が開かれ、農民も同じ町で生活し、綿花や菜種、甘藷、きびなどの商品作物が栽培され、浜では干鰯(ほしか)が生産されると、これらを取扱加工する各種の商工業も盛んとなり、人が集まり民家も増え、町は街道に並行するもう一本の道へと拡大します。幕末には家数500戸、人口2000人を数え、農民、漁民、小人や手工業者が生活する在郷町として栄えます。「泉州志」(出口神暁校訂)に「此地、南海四国の船懸りにして、小人都会の地」と書かれています。船が出入りしたのは、浜街道からわずか50m程先の長さ700mに及び尾崎浦(湊)で、大船は沖合に泊まり、そこからは小船で荷を運びました。
尾崎村は明治22(1889)年に町村制が施行された時も近隣の村々のように合併することなく単独のままでしたが、その後昭和14(1939)年に尾崎町、昭和31(1956)年に下荘村、西鳥取村と合併して南海町、昭和47(1972)年に東鳥取町と合併して阪南町、平成3(1991)年に阪南市となりました。
尾崎の古い町並は海岸に並行する二本の道沿いと、成子家(国登録文化財)あたりに見られます。道幅1間半の孝子越街道(浜街道)には、平屋あるいは厨子二階の建物が軒を連ね、虫籠窓、障子張の引き戸、出格子などの意匠を持つ伝統的家屋や蔵、倉庫が点在し、街道の雰囲気を今に残しています。
■INFORMATION
- 住所
- 阪南市尾崎町2-2-11-201